チョップアングル

オタク系フリーライター・岡島正晃が、日々の雑感などを書き散らすブログです。原稿執筆のご依頼も、随時受け付けております。Twitterアカウント「岡島正晃@Adlahir」までご連絡ください。

『ガルパン』と『艦これ』で戦車と艦船のプラモが売れる理由

 

マイブーム≠ビッグウェーブ

 

 2014年、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。

 

 ……なーんて、そんなお決まりのご挨拶も白々しいぐらい、お久しぶりのブログ更新である。人間、トシを取ると万事億劫になってイケナイね。

 

 とはいえ、ご無沙汰していた昨年後半も、俺様はちゃーんとオタクな日々を送っていた。最近のマイブームはプラモデル……って、それは生涯の趣味であるから、マイブームもヘッタクレもないんだがー。ここしばらく夢中になっていたのは、中学生の頃以来ずーっと作ってなかった、現用飛行機の模型なのである。

 

「なんでまた?」と聞かれれば、要因はいろいろある。幼き日のトラウマとか、愛してやまないゲーム『エースコンバット』シリーズの影響とか。ついでに言えば、それぞれに面白い話もあるのだけれど、それはまあ、またの機会ということで。とにかく現時点、モデラー(←模型作りを趣味とするヒト、ね)としての俺様は、現用軍用機のプラモデルがマイブームなのだ。

 

 それだけに、ね。

 

 もー悔しくて、仕方ないのよっ!

 

 昨今の『ガールズ&パンツァー』(以下『ガルパン』)による戦車模型ブームと、『艦隊これくしょん』(以下『艦これ』)による、艦船模型ブームがさ!!

 

 

ナゾの大ヒットに脳の老化を疑う

 

 この両作品について、念のためザックリ説明しておくなら、『ガルパン』は「女子高生が第二次大戦時代の戦車を駆り、“戦車道”という架空の競技で奮闘するアニメーション作品」、『艦これ』は「第二次大戦時代の日本軍艦船がカワイイ女の子に擬人化され、彼女らの装備や編成を整えて敵と戦わせるPC用ブラウザゲーム」である。

 

 とまあ、簡にして要を得る↑の説明は、まったく心得たモノよと、自画自賛なんだが!

 

 正直言うと俺様、この2作品がここまでの大ヒットを飛ばすとは、まったく予想していなかったのだ。

 

 いやだって、そうじゃなーい? 例えば「戦車」なんかは「ミリタリーの王様」みたいなポジションで、コレが好きというだけで「ミリオタ」とイコールみたいなイメージだし。いくら乗るのが女子高生でも、『ソード・アート・オンライン』あたりが大スキなオタク多数派にアピールするとは、とても思えなかったのだ。同じメカもので比べても、「背中に山ほど羽根生やした今日びのガンダム」なんかと比べたら、どう贔屓目に見ても地味なのは否めない。

 

 まして「艦船」に至っては、完全に「盆栽化」していた印象。即ち「お年寄りを中心にコアでハイエンドなファンだけが残っており、彼らについて行けるだけの情熱を持った若者が細々と加わり続けるコトで、総量としては低めの熱を保ち続けている状態」である、と。門外漢の失礼千万なモノ言いなれど、いまさら艦船が女の子に化けたところで、「背中に山ほど(以下略)」なファンが食いつくなんて、誰に予想し得よう!?

 

 しかも両ジャンルに共通の問題として、いわゆる萌えオタクの取り込みを狙った「女の子との抱き合わせ商法」は、既存の硬派なファンから大ブーイングを呼ぶ恐れがある。なにしろ両ジャンルのファンの方々は、その硬派なノリも含めてお好きなワケであるから、安易な萌えの導入など冒涜と取られても不思議はない。

 

 ゆえに俺様、どっちも世に出た当初は「約束された爆死の件」とか言って、かなーりナナメに見てたワケー。

 

 ところが前述のように、いまやどちらの作品も、飛ぶ鳥どころかデススターでも堕とす勢いだ。しかも人気は作品それ自体に留まらず、『ガルパン』をきっかけに戦車の、『艦これ』をきっかけに艦船の模型を作ってみたという層まで急増。ネットの模型画像投稿サイトにも、それまでとは比較にならない数の投稿が寄せられているのである。

 

 一体全体、コレってどういうワケ?

 

 

戦車に足らなかった「ドラマ」を与えてくれた『ガルパン』

 

 飛行機だけがハブられた悔しさもあって(「なんで戦車と艦船ばっか上手くやってやがんだよ!」ってコトね:笑)、俺様も『艦これ』のスタートダッシュからこっち、この大ヒットのナゾについてつらつら考え続けていた。その結果、あるひとつの回答に至ったように思う。

 

 まず大前提として、両作品に「萌えキャラが出てたから」という分析は、あまりに安易であると言わねばなるまい。作品の人気が女の子キャラ「だけに」依存しているなら、アキバの売れ筋はキャラクターのフィギュアでなければ説明がつかないからだ。そうでないなら、むしろ女の子キャラクターという入り口から作品のファンになった人たちが、戦車なり艦船なりの魅力に目覚めていると見るべきだろう。

 

 この点で解かりやすいのは、『ガルパン』のほうである。なにせ劇中で女子高生が乗り回すのは、二次大戦の戦車そのまんま。フルCGによってプラモデル顔負けのディテール密度を与えられたそれらの戦車が、履帯で泥を蹴立て、戦車砲をドカンと撃てば、カッコイイに決まってんだから! まして「本物の二次大戦戦車が戦ってる映像」は極めて貴重だし、おまけにほとんどモノクロ。『ガルパン』が描き出した総天然色の戦車戦映像は、ミリタリーファンにとってすら、驚きと感動に満ちている。いわんや戦車のセの字も知らなかった人たちにとって、いかに新鮮なモノだったかは想像に難くない。

 

 さらに『ガルパン』は、アニメならではの演出によって、各戦車のキャラクターをきちんと立てていた。火力面ではお話にならない八九式中戦車も、柄の小ささと快足を活かした囮作戦で大活躍。Ⅲ号突撃砲は持ち前の火力と背の低さでスナイパーのように立ち回り、ドイツ軍の「ワークホース」と謳われた我らがⅣ号戦車は、涙ぐましい改修と搭乗員のチームワークで難局を乗り越えていく。いずれのケースでも、戦車の見た目と活躍ぶりがイコールで結ばれており、言い換えるなら「機能を体現している」ワケである。コレぞまさに、メカの魅力の真骨頂! 数だけはやたらと出てくるくせに同じような戦い方しかせず、デザインと強さでしか差別化されていない凡百なアニメロボより、印象に残って当然だ。

 

 ただ、ここで勘違いして欲しくないのは、『ガルパン』はそうした戦車のキャラクター性を誇張したに過ぎず、「付与した」わけでは決してないことである。「火力はぜんぜんないけど足は速い」とか、「超強ぇけどすぐ故障する」といったキャラクター性は、史実の戦車たちがもともと備えていたモノで、ザインにもそれは顕れている。

 しかしながら、じゃあ個々の戦車たちが、そうした特性を活かして如何に戦い、それがどう見えたのかという点に関して、史実はあまり多くを語ってくれない。なにしろⅣ号戦車など、総生産数は8500両にも上るのだ! 「Ⅳ号戦車という戦車全体」の特徴=キャラクター性や、戦史的な影響功罪は語れても、その1両1両の「ドラマ」に関しては、よほど有名なケースでなければ藪の中なのである。

 

 そう! 『ガルパン』によって付与されたのは、むしろこの「ドラマ」のほうなのだ。

 

 いかに戦車の機能や個性が際立っていても、それらのデータだけで萌えられるのは、たぶんもともと戦車がスキな人だけだ。それ以外の多くの人たちは、実際に戦車が戦うドラマを見て、はじめて「カッコイイ!」と思うんじゃなかろうか? ズゴックだって、ライバルであるシャアの復活劇と、ジムのどてっ腹をブチ抜く鮮烈なシーンがあったからこそ、人気を博していたハズ。ぶっちゃけアレのデザインとMGプラモデルあたりの解説文だけでファンになれる人って、そんなに多くあるまい。それと同じコトである。

 

 つまり『ガルパン』は、キャッチーな女の子キャラを掴みに、「戦車道」という殺伐とし過ぎない王道スポーツ「ドラマ」のアツい展開のなかで、戦車のキャラクター性を真正面から描き切ったというワケ。なればこそ、それまで戦車に見向きもしなかった人たちも、「バレー部員が乗ってた“はっきゅん”(←八九式中戦車のあだ名:^^)が欲しい!」と、プラモ屋に走ったのである。

 

かく言う俺様自身、最初は「ガルパン効果でドラゴン社のⅣ号G初期が再販されるのかぁ。じゃそっち作るかなぁ」とか言ってたくせに、女の子ちゃんたちのスポ根ドラマにほだされて、いまじゃすっかり「作るなら絶対プラウダ戦バージョン!」になってるぐらい。アナタにも思い当たるフシ、あるんじゃないかしら?

 

 

艦船の魅力は戦車と真逆?

 

 一方、『艦これ』のヒットで艦船模型が売れているという状況は、ずっと解かりにくい。前述のように、なにしろこちらは艦そのものが女の子に擬人化されており、ゲーム中にモデルとなった艦の姿は一切出て来ないのだ。そんなゲームのファンが、擬人化された「艦娘」のフィギュアではなく、モデルとなった艦のキットを買うというのは、なんとも不可解だろう。

 

 だがここで、前述した戦車の特性を踏まえつつ、艦船ついて考えてみると、意外なほどストンと腑に落ちる。実は興味の対象としての戦車と艦船を比べた場合、両者はまったく逆の立場にいるのである。

 

 まず艦船は、戦車に比べるとキャラクター性が非常に見えにくい。なんせ空母を別にすれば、船体の形はどれも「棒になんか乗ってる」だけ。それを言ったら戦車もご同様だが、こちらはサイズが馬鹿デカイもんだから、ディテールは山ほどあるクセに、全身が映る引きの画だと、どれも印象がボヤけてしまう。もちろん、それら個々の機能も見た目に解かりにくい。乗員の数も膨大なため、感情移入する視点の置きどころにも困るだろう。ダメ押しとばかりに、軍用艦船には「同型艦」という、素人目には見た目の違いがまったくわからないヤツらがゴロゴロいたりする。

 そりゃあ確かに、駆逐艦と戦艦ではサイズも桁違いだから、並んでいればおのずと印象は変わるのだが、それだって1/700統一スケールで模型を並べてみるとかしないと、なかなか伝わらないハズだ。

 

 だが逆に、艦船は戦車と違って、どれひとつをとってもドラマの宝庫である。なにしろ艦船は国家の威信をかけて建造される兵器であり、当然その絶対数も圧倒的に少ない。それだけに一隻一隻が固有の名を持ち、ほとんどは建造から最後の瞬間までの航跡を記録に留めているのである。あるいは激闘の、あるいは悲劇の運命をその身に背負った「ドラマ性」こそ、戦車にはない艦船の魅力なのだ。

 

 もうお解かりだろう。『艦これ』のアプローチは、こうした艦船の弱点を補い、その魅力の真髄へと誘導する仕掛けなのである。

 

 まず、素人目には見た目の違いも判らない艦船を女の子に擬人化し、「キャラクター」を与える。ビジュアルと声と人格を与えられた「艦娘」たちは、モデルとなった艦そのものよりもずっと親しみやすく、差別化も容易。ユーザーの記憶にもバッチリ刻み付けられる。

 

 ところが実はこの段階で、「艦娘」のキャラクターにはモデルとなった艦のドラマが反映されているのだ。英国のヴィッカーズが設計、建造したモデル艦にちなんで、艦娘の「金剛さん」もニセ外人みたいな喋り方をする、といった具合に。同型「艦娘」が同じイラストレーターの手で描かれているのも、こうした「仕込み」のひとつだろう。このあたりで、熱心なファンなら「なんでだろ?」と気になってしまうハズ。

 

 さらに「艦娘」たちは、折々で意味深な台詞をポロっと吐いたりもする。例えば「長門さん」が轟沈するときの

 

「戦いの中で沈むのだ……あの光ではなく……本望だな……」

 

 は、なんと第二次大戦を生き抜いたモデル艦の長戸が、終戦後に原爆実験によって沈んだという史実を反映させたもの。ハッキリ言って艦船マニア以外には何のコトやらサッパリなのだが、それだけに「彼女の」キャラクターに親しんでいたプレイヤーたちは、その意味するところを調べずにいられまい! 結果、wikiのひとつも読んでみたプレイヤーの何割かは、長門の辿ったドラマに胸を打たれるという寸法である。

 

 いやはやまったく。なんと上手い、そしてイカす仕掛けだろうか!

 

 

偶然でも安易でもない、大ヒットの必然

 

 だからどちらの作品も、単に時流に乗っただとか、萌えオタに媚びただけだとか、まして単なる偶然で大ヒットしたワケでは、断じてない! むしろ、戦車なり艦船なりを本当に「わかってらっしゃる」作り手が、その魅力を伝え、足らないナニかを補う手段として、女の子キャラを上手に組み合わせたからこそ、いまの活況があるのだ。

 

 そして恐らく、現在『ガルパン』や『艦これ』のファンで、戦車なり艦船なりの模型にまで手を出している人たちは、以降の人生でもそれぞれのファンであり続けるだろう。もともと「もう出すモンもない」状態の戦車模型はともかく、艦船模型では、コレがキッカケで古いキットのリニューアルなんかも、ワンチャンありそうな勢いだし。

 

「1/72でF-5Eを作りたいナー」とか思い立ったモノの、古今東西に渡って決定版キットがひとつもないと知って、ガンプラとのあまりの差に顎をハズすほど驚いた、俺様のようなニワカ飛行機モデラーからすると、まっこと羨ましい。いやむしろ妬ましい!

 

 妬ましいんだけど。模型画像投稿サイトに『ガルパン』戦車や『艦これ』艦船が並ぶたび、思わず喝采を叫んじゃう俺様なのである。

 

「本は、読んどけ!」が気になって

 

アニメっ子おじさん、大いに引っかかる

 

フリーライターとしての俺様のナワバリは、基本的にオタクカルチャー周辺である。当然アニメ関連の原稿も結構書かせて頂いてるのだが、その多くは『ガンダム』や『ボトムズ』といった80年代作品が中心。実を言えば、放映中の作品をオンタイムで毎週チェックするという習性は永らく持っておらず、仕事上必要な作品をビデオグラムでイッキ観するのが関の山であった。(『攻殻機動隊S.A.C』は、TV放映より先行してたDVDを、発売日にレンタルで観ちゃってたしね)

 

そんな俺様が、2011年の『シュタインズ・ゲート』にドハマりして以来、目下すっかりアニメっ子。いやさ、アニメ中年? まあとにかく、30代も終盤になってから、子供の頃以上にアニメを観るようになったんだから、人生ワカランものだ。

 

で、もちろんこの夏スタートの作品も、一通り序盤は視てみたんだけど。クオリティや内容とは全く別の次元で、ちょっと気になってしまった作品がある。

 

犬とハサミは使いよう』だ。

 

 

2013年7月25日現在、第4話まで放映中のこの作品は、昨今流行のライトノベル原作アニメ。内容はというと、

 

「無類の本好きである高校生男子が強盗に殺害されてしまうが、死に際に「何年も未刊になっている大好きな作家の連作シリーズ最終巻を、読まずには死ねない!」と強く願ったせいか、その精神だけが死に掛けていた(?)ミニチュア・ダックスフンドに転移。殺害現場にも居合わせ、なぜか犬になった彼の心の声を聞ける美少女作家に拾われて、大騒動を巻き起こす」

 

といったカンジ(もし違ってても許されて。なんせ俺様、原作未読なんだから)。お約束のように、件の美少女は主人公が大ファンであるところの作家である。

 

この美少女作家はドSでエキセントリック、おまけにステキ貧乳の持ち主だったりするのだが、それらがもたらす笑いはまあ、昨今のラノベ原作アニメでは、もはやテンプレの域。やはり本作の独自性は、「本への偏愛」が大きくフィーチャーされているコトだろう。考えてみれば、ラノベの読者なんて多かれ少なかれそういう人種なワケだから、なんというかその、非常に上手いフックである。

 

それを象徴するひと言が、本作のアニメ版オープニングに登場する。やたらハイテンションにカワイさを押し付けてくる、俺様的にはすこぶるニガテな類のテーマソングの最後に、犬になってしまった主人公が一声叫ぶのだ。

 

「本は、読んどけ!」

 

ぶっちゃけた話、俺様は作品そのものより、このひと言が引っかかって仕方ないんである。

 

インドアオタクにありがちな?

 

なぜか?

 

それはこのひと言に「本」、とくにラノベをはじめとする小説を愛するインドア系オタクの、無意識的な優越感を嗅ぎ取ってしまったからだ。

 

いや、オタクに限った話ではないのかも知れない。今日においてさえ、履歴書の「趣味」欄に書くコトがないと、とりあえず「読書」と書くヤツはごまんといる(因みに次点は「音楽鑑賞」)。自分を売り込む書類にも「とりあえず書ける」ぐらい、「本」とか「読書」にはインテリっぽいプラスのイメージが宿っているのだ。おまけに本は読むだけなら日本語がわかる以上の能力を要求されないから、スポーツと違ってレギュラー落ちする心配もない。つまり「スキ」でありさえすれば、知的なイメージがもれなくついてくる。というか、そう思われている。

 

となれば、体育会系のイケぶりを横目に黒い炎を燃やしっぱなしな、スクールカースト最底辺のインドア系オタクにとって、「本」とか「読書」は最後の砦。ケロロ軍曹言うところの「俺のレイヤー」、または絶対的優位を誇れる魔空空間みたいなモンである。勢い若かりし頃には、こんなコトも言ってみちゃったりして。

 

「そういえば最近、本読んでないんだー。今月なんかまだ2冊だよー」

 

もちろんコレ、映画ファンやゲームファンが「映画観てないなー」とか「ゲームしてないなー」と言うのとは、ニュアンスが全然違う。「ゲームがっ! ゲームが足りないんじゃぁぁぁぁ、マァァァァァチィィィィン!(←※殺人マンドリル)」と叫ぶゲーマーは、世間さまにドン引きされるのを百も承知だが、「本読んでないんだー」はその真逆だ。早い話、「まあボクは普段、メッチャ本読んでるからね!」的なインテリ・アピールであり、「本も読まない粗暴な輩」と自分とのあいだに、一線を画す心理の成せる業なんじゃないかしら?

 

ハイ、もうお分かりだと思う。俺様、コレが鼻持ちならんのよっ!!

 

本=知的だったのはいつまでか?

 

大体、彼らの言う「本」ってなんなのだ? 「あの本」、「この作品」、「あの作者の最新作」ならわかるけど、ざっくり「本」。この段階で、もう相当アヤシイ。

 

これがもっと昔の話なら、「本=学のある人の象徴的アイテム」という図式も成り立っただろう。活版印刷技術の誕生が宗教改革を後押ししたように、あるいは文明開化の時代に、多くの民衆が本によって民主主義に目覚めたように。進歩的思想をはじめとする「知」の伝播メディアが唯一「本」のみであり、それこそが本のメインストリームだった時代には、これを嗜むことが知識人、言論人としての最低条件であっただろうから。(だからこそ、のちの『書を捨てよ、町へ出よう』がカウンター足り得たワケだ)個人的には、「本を読んでいる=学がある」というイメージは、このあたりに起因するものと疑っている。信じられないかもしれないが、日本でもずいぶん長いこと「小説」などは「本」のうちに入らず、今で言うマンガやアニメのように、眉をひそめられていたと聞くし。

 

ところが翻って現代。「最近、本読んでないんだよナー」とかウソぶいてる若者が手にしているのが『涼宮ハルヒのなんちゃら』(←古い? ゴメン、おじさんラノベはよく知らんのよ)だったりすると、俺様は猛烈にツッコミたくなるのだ。

 

「いや、その「本」は、読んでても別に知的なイメージとかねぇから!」

 

それなりの理由があって抱き合わせだった、かつての「本」の知的イメージに、役割的にぜんぜん関係ないモノまで乗っけちゃってないか?

 

 

もちろん、種類の別を問わず活字を濫読するのに、知性を磨く効果がないとは、俺様も言わない。活字宇宙で多様なボキャブラリーを身につけ、言語表現の引き出しを増やすことは、抽象的概念を「言葉で考える」人類の思考能力にとって大事なステップであり、また武器である。なので俺様も、小さい子や思春期の中学生なんかには、「なんでもイイから、気になった本があれば読んでごらん」と、大いに言いたい。身体能力の基礎を鍛える、子供向けのスポーツ活動と同じことだ。

 

でもね、こういうのが問題になるのは、せいぜいその年齢まで。それ以上は、自分の知らないコト、知りたいコトについて書いてある本(あるいは、それに類する情報源)を意識的に探していかなければ、「知」の領域は広がらない。「なんでもイイから読んでれば知的♪」ってワケじゃないんである。

 

同様に、「最近本読んでないなー」みたいなコトを言うヤツがやたらと自慢したがる「読んだ本の数」も、読み手の知性や感性、観賞眼の直接的論拠とは、あまりなっていないように思う。映画なんかでも同じコトが言えるけど、とにかく数を観て観賞眼を鍛えるのが有効なのは、やはり基礎の部分まで。それ以上は純粋に知性と訓練、そしてそれを支える探求心の問題で、例えば自分の好きな作品について、優れた批評家をはじめとする他人の意見を聞いたり読んだりしてるヤツのほうが、その裾野は広がるものなのだ。個人的な印象でも、やたら数ばかり自慢する映画ファンほど「面白かった」とか「演出がよかった」とか、ひどい場合には「7点!」程度しか言えてないのに対し、作品にほれ込んだ挙げ句『ブレードランナー論序説』にまで手を出してるような人たちは、たとえ数は少なくても、観た作品個々に関して興味深いコトを仰っている。

 

丸見えですよ馬の脚

 

「でも、何気なく手に取った本で、人生観を新たにすることだってあるじゃない!」って? ごもっとも。もちろん俺様だって文筆業の端くれ、いままで出会った本のなかには愛して止まないモノもあるし、一生の宝物になった読書体験だって山ほどある。でもそれは、他のメディアでも同じコトだ。新書で得られる知的興奮はドキュメンタリーで得ることもできようし、小説で得られたのと同じ感動が、映画やゲームで得られない道理はない。もっと言えば、例えばスポーツのなかでだって、人生観を揺るがす瞬間は鮮烈に訪れるだろう。「本」だけが特別でも、「本を読んでる知的なオレ」だけに許された宝物でもないのである。

 

(ついでに余談ながら、そもそも言語というメディアは、描写能力の点で甚だ不自由である。写真を見れば一瞬で理解できる風景を、同じ解像度で伝えるには数千語を要するし、ボクシングの試合を正確に描写したら、電光石火のジャブ一発の描写を読むのに数十秒はかかる=「スピード」という情報が欠落するので、動画にまったく敵わない。ゆえに小説では、作者の脳内風景から最も注視して欲しい部分を「切り出して」描写し、それによって全体を「連想」させるという、大変特殊で苦しいコトをやっているのであって、お世辞にも「向いているメディア」とは言い難いのだ。反面、この原稿のような抽象概念は言語でしか表現し得ず、映像のみで伝えることは不可能である)

 

そう、小説やラノベを含めた今日の「本」っていうのは、もはや知的イメージを読み手に与える特権的なアイテムではないのだ! 

 

にもかかわらず、旧来的なイメージをダシにして、さも「本を読んでいるオレ」が知的であるかのようにアピールするのって、イヤらしいし、逆にアタマ悪くね? と。

 

いわんや「本は、読んどけ!」とは。「バスケは、やっとけ!」と同じぐらい、大きなお世話である。

 

オレがスキなのは本であって本を読んでるオレじゃないのでオレ自身はボンクラでもいいという悟りに彼女がまったく感心してくれない件

 

逆に言うと、俺様は今日において、個々の内容以前にメディアとしての「本」を「読むこと」、その行為自体を偏愛することは、もはや嗜好の問題だと思っている。取り立てて知的でもなんでもない、サッカーやプラモデル作りや映画鑑賞とまったく同列の、単なる「趣味」に過ぎない、と。

 

そして、その上でなら。あくまでその上でなら、俺様は本を読むのが大好きだ。

 

ジャンルなんか関係ない。例えば新書なんか、得られる情報はドキュメンタリーと同じでも、ページをめくるたびに知恵の輪がほどけていくようなあのカンジは、やっぱり捨てがたい。この偏愛は知的どころかアレ寸前で、スマートでも効率的でもなく、ヘタすっと懐古主義一歩手前なんだけど、俺様はそれが好きなんである。

 

もちろん小説も大好きだ。掌を返すワケでもなんでもなく、若い子がラノベを読むのだって「大いに楽しんで!」と思う。俺様自身、最近のラノベはまったく読まないけど、中学生の頃には『クラッシャージョウ』シリーズを貪り読んで、遠い宇宙での大冒険に興奮しっぱなしだったもの。どっちも読んでたってカケラも知的じゃない。むしろ妄想で脳がパッツンパッツンな、ボンクラ野郎の一丁あがりだ。一般小説だって、コレは基本的に変わらない。

 

でも、楽しい。だからこそ、面白い!

 

それで充分じゃなーい?

 

 

そういえば、より重篤な症状のご同輩のなかには、自らを「活字中毒者」を呼ぶ方もいらっしゃる。「中毒者」だよ!? 字義だけを問うなら、「本は、読んどけ!」のイタさ、「今月2冊しか読んでなくてー」のイヤらしさに比して、なんとわきまえたモノ言いだろう。

 

俺様自身が果たしてその域にあるのかどうか、それは正直どうでもいいし、俺様にはわからない。ただわかるのは、発売後2ヶ月にしてやっと買って来た『新装版コナン全集6 龍の刻』(ロバート・E・ハワード 著 中村融 訳)をようやく読めるのが、いまは楽しみで仕方がない、ということだ。

 

え? なんでもっと早く買わなかったかって?

 

 

買ったら読み耽っちゃうでしょ! 仕事ほったらかしで!!

 

 

龍の刻 (新訂版コナン全集6) (創元推理文庫)

龍の刻 (新訂版コナン全集6) (創元推理文庫)

 

 

(追記)

お読みになればお分かりと思うが、本稿には『犬とハサミは使いよう』、とくにその原作であるラノベを批難する意図はまったくない。むしろ調べてみたら、なんとこの作品、巻が進むと「文学者同志が繰り広げる、男塾も真っ青の文筆バトル!」という超展開まで待ってるんだそうで。「本=知的」への皮肉と捉えるのは穿ちが過ぎようが、ひょとしたらゲラゲラ笑って楽しめるのかも知れない。

 

 

触れずにおきたかった児ポ法の話

 

 頑固な油汚れのように

 

 2013年5月29日、例の「児童ポルノ禁止法改正案」が、衆院に提出された。

 

 今回の改正案の争点は、まずいわゆる「単純所持」の禁止。児童ポルノ画像などを「自己の性的好奇心を満たす目的」で所持した者に、1年以下の懲役または100万円以下の罰金を課すとしている。さらに検討条項として、「児童ポルノに類する」漫画やアニメなどと児童へのわいせつ行為などへの関連を「調査研究」し、3年後を目処に「必要な措置」をとることが求められている。

 

 この改正案、過去にも提出されては成立を見送られて来たのだが、それには相応の理由と問題がある。すでに多くの識者が多面的な論陣を張っているので、オタクを自認する方なら見聞きしていることだろう。

 

 ただ俺様的には、一連の議論にどこか煮え切らなさを感じた次第。そこで今回は、あくまで法律の素人である一個人の雑感として、その辺りをしたためておきたい。

 

「単純所持」ったっていろいろです

 

 まず第一に「単純所持」について。実は俺様、こと実写の児童ポルノに関してなら賛成だ。

 

 児ポ法の最大の目的は、幼い子供たちを守ることである。なぜなら幼児というのは、自分がやっていること、やらされていることの良し悪しや、将来に渡るその影響について、成人ほど的確な判断ができず、できたとしても「イヤだ」と言うのが難しいだろうから。クズみたいな親が自分の子供を児童ポルノに出演させていた場合、被害者である子供たちに何ができようか?

 

 そういう境遇にある子供たちを救うのが児ポ法の存在意義であり、そのためなら最大限、あらゆる手段を採るべきと、俺様は考えている。忘れてはいけない、「ただ持ってただけ」のその動画なり写真なりに映ってるのは、クソみたいな大人に食い物にされながら、どこかで生きている生身の子供たちなのだ。「持ってるだけでヤバい」という法案が、購入者や商品を扱うアングラショップに対して大きなプレッシャーとなり、結果「児童ポルノは売れない=金にならない」となる可能性には、乗ってみる価値があろう。

 

 ただし逆説的に、この「児童ポルノの被害者を減らす」という大命題から外れた部分では、法の濫用を厳しく監視していく必要はある。なんか国会では、過去に宮沢りえの『サンタ・フェ』が児童ポルノに当たるかどうかが議論されたとか。まったくもってバカらしい。当時18歳の本人が納得ずくで行なった芸能活動を槍玉に挙げて、どこの児童を救える? 法の運用上「どこまでがポルノか?」という問いが出ざるを得ないのは理解できるが、肝心なのは「ポルノかどうか」ではなく、「規制によって救われる被害者がいるかどうか」のはずだ。

 

 同様に、別件逮捕の口実に使われないよう、行使の過程を透明化するのは必須だろう。「単純所持を禁じれば児童ポルノソフトは減るのか?」という検証も続けられるべきだし、結果が「ノー」なら違う手を考える必要もある。

 

  

 とまあ、ここまでが「実写児童ポルノの単純所持」にまつわるハナシ。ただぶっちゃけて言うと、これは前座に過ぎない。

 

 そう! この法律の最大の問題は

 

「児童ポルノに類する」漫画やアニメなどと児童へのわいせつ行為などへの関連を「調査研究」し、3年後を目処に「必要な措置」をとることが求められている。

 

という検討条項のほうなのだ! いわゆる「非実在青少年」がウンタラとかいうアレ、もっとハッキリ言っちゃえば「ロリ系のエロマンガやイラストの単純所持も違法化する」って流れである。

 

 これに関しては、すでに多くの漫画家や識者から反論が寄せられている。私見ではその多くが、主として「表現の自由」に軸足を置いたもののようだ。もちろんそれらは、お説ごもっともである。

 

 ただ俺様自身は、表現の自由とはほとんど関係ない部分で、この検討条項に怒りを覚えている。そりゃもう、ハラワタが煮えくり返るほどに。

 

 なぜか? この検討条項に、人類が培ってきた近代法の精神とは真逆の悪辣さを感じるからだ。そしてそれにも関わらず、いけしゃあしゃあと「正義ヅラ」していやがるからだ!

 

 ロリコン=性暴力者という幻想

 

 基本的なところからはじめよう。まず第一に、ロリ系エロマンガであんなコトやこんなコトをされてるのは、架空のキャラクターである。ていうか「絵」である。ゆえに、実写の児童ポルノのような直接の被害者はいない。一方で、ロリ系エロマンガで喰べている漫画家や編集者、出版社はいる。これを規制しても誰も救えないどころか、路頭に迷う人間を増やすだけだ。

 

 これだけでも反論には十分なのだが、どうもこの検討条項の推進者たちは、「ロリ系エロマンガに劣情を刺激された連中が、児童への性犯罪に走っている」と考えているらしい。

 

 そんなバカな、である。

 

 だって、世に出ているロリ系エロマンガの販売数と、児童を対象とした性犯罪の相関は、まったく証明されていないんだから。2012年、警察庁が摘発した児童への性的虐待は96件時事ドットコム調べ http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_tyosa-jikenchildren-casualties。対して山ほどあるロリ系エロマンガの単行本は、それぞれにつき千部単位の刷り数だろう。むしろここから読み解けるのは、アキバのアレなコミックショップでロリ系エロマンガを買ってる人たちの圧倒的大多数が「児童への性犯罪になんか走っていない」ことのほうだ。

 

「でもごく少数は、ロリ系エロマンガに触発されて性犯罪に走ったかも知れない。被害者を少なくするためには何でもやるべきだって、アンタ言ったじゃないか!」

 

 ですって? ふむ。本当にそうだろうかね?

 ネット上では散々言及されているが、こんなデータがある。

  

犯罪率統計-国連調査(2000年) 

G8の1999年ないし2000年の強姦(件/10万人) 

カナダ   78.08件  単純所持禁止 二次元禁止 

アメリカ  32.05件  単純所持禁止 二次元禁止(ただし違憲で無効) 

イギリス  16.23件  単純所持禁止 

フランス  14.36件  単純所持禁止 

ドイツ   9.12件  単純所持禁止 

ロシア   4.78件   

日本    1.78件

 

  実は、ロリ系エロマンガの単純所持を規制している国のほうが、強姦事件の件数は多いのだ。児童ポルノ云々とはまったく違う要因も考えられるため、このデータから「児童ポルノの規制が強姦事件の多発を生んでいる」とは「言えない」が、逆に「ロリ系エロマンガの単純所持を違法にすれば、児童への性的虐待は減るはずだ」という理論もまた、成り立つはずがない。

 

 むしろ俺様などは、あくまで卑近な感覚に基づいてではあるが、上記のデータを「なるほどなぁ」と思いながら見たものだ。だってその……すこぶる下品なモノ言いになるけどさ。

 

 エロマンガで幼女への性愛を「発散」するのさえ禁じられちゃったら、そりゃ犯罪に走るヤツだって、出てきかねんよなぁ、と。

 

 パオロ・マッツァリーノ氏の『反社会学講座』では、昭和33年からの数年間、強姦事件の件数が激増したことに関し、同年施行された売春防止法との関連の可能性が指摘されている。胸クソ悪い事実ではあるが、似たようなケースって可能性はあるんじゃない?

 

 先にも述べたように、だからと言って実写児童ポルノの単純所持を認めるのは、俺様も反対だ。ごく少数の児童を「生贄」に、犯罪の総数を減らして良しとすようなやり方は。だけどさ、さっきも言ったけど、エロマンガに被害者はいないんだぜ? むしろロリ系エロマンガっていう「性欲のはけ口」を用意しといたほうが、子供守れるんじゃねぇの?

 

 

 それでも。だがそれでも、一部の規制論者は、きっと言うのだ。

 

「だけど、ロリ系エロマンガを読む人たちが、幼女に性欲を抱いているのは間違いないんですよ? そういう人たちが、もし自分の子供に牙を剥いたら? 親として、心配になって当然じゃないですか!」

 

 ここまで言われてしまうと、もう俺様も冷静でいられない。

 ふつふつと湧いてくる怒りが、抑えきれなくなるからだ。

 

 「気づいたら変態だった」という人生

 

 いや本当に、人の性的嗜好というのは様々だ。

 普通に暮らしている「普通の人」は、なんとなく「みんな自分と同じ性的嗜好を持ってる」ものとして、世間を見ているのだろう。それはほとんどの場合正しいのだが、フリーの売文屋なんていう商売をしていると、そういう「普通」からはみ出てしまった方たちとも、知遇を得る機会が少なくない。そしてそのなかには、とてもここには書けないような嗜好の持ち主もいらした。披歴したなら良くて「変態」、最悪「狂人」と目されるような人も。

 

 だがね、「普通の人」たちよ。ちょっと考えてみて欲しいのだ。

  

 誰がスキ好んで、「変態」に生まれるものかよっ!!

  

 俺様が知っている、あるいは聞いている「変態」がたは(あえてかかる言い方をしているが、侮蔑する意図はまったくない点、どうかご理解願いたい)、みな「気がついたらそうだった」のであって、自らの性的嗜好を「能動的に選び取った」わけではない。「普通の」人だって、これは同じはずだ。巨乳好きもショートカット好きも、細マッチョ好みも眼鏡男子好みも、別に人生のある時点で「今日からそうなろう!」と決めたわけではあるまい。

 

 であるなら、自由意志とは無関係に、自分の性的嗜好が(世に言う)「変態的な」ものだと気づいてしまった人の気持ちとは、果たしてどんなものだろうか?

 

 幼い子供にしか欲情しない自分を意識し、それを現実に満たすことが決して、死ぬまで許されないと気づいてしまった人々の辛さ、苦しさ、後ろめたさ。本当に満足できる性愛の喜びを、ほかでもない愛する幼女たちを思えばこそ、諦めなくてはならない人生。

 

 正直言って、俺様には想像もつかない。唯一想像できるのは、彼らの多くが何度も何度も、こう思ったかも知れない、ということだ。

 

「普通だったら、どんなに楽だったろう」と。

 

 ……なあ。誰にだって、人生は一回こっきりなんだぜ?

 

 この恐るべき、愛のない世界

 

 こんなことを言うと、反論する方もある。

 

「だったらちゃんと、成人女性を愛せるように矯正すればいいじゃないか」

 

 ハッキリ言う。想像力のかけらもないその言い草には、悲しみしか感じない。

 

 これは、同じように「多くの人と違う」性的嗜好指向(※)、同性愛のことを考えてみれば理解が早かろう。仮に異性愛者がこう言われたら、果たしてどうする?

 

「アナタが知ってる世界はぜんぶ夢で、いま目覚めたこの世界では、同性愛が普通です。あなたも今日から、同性と愛し合ってください」

 

 俺様だったら、たとえ世界中を敵に回しても御免だ。恐らく多くの異性愛者は、そう思うだろう。

 性的嗜好が「普通」と違う人に「普通になれ」と要求するのは、これと同じことである。残酷な物言いだ。

 

※6/08 修正致しました。「どの性を対象とするか」という場合は「指向」が正しいです。ご指摘に感謝し、お詫びして訂正いたします。

 

「でもそれが、生物として正しい姿なんだから」だって? それじゃあお聞きしますが、いまの世の中、必ずしも「生物学的に生存の可能性が高い異性」だけがモテてますか? つまり、脂肪をたっぷり蓄えた人とか、警察の手を逃れながら300人ぐらい撲殺してる人とか。あるいは、浮き世絵に描かれた「昔の美人」とか、遠い異国で美人とされる「首と耳がやたらと長い人」でもいい。

 

 人間は「生物学的に正しい」異性を、それゆえに愛するのではない、と俺様は思う。「望ましい愛の対象」は文化のコードに規定され、それでも最後には、心で感じた人を愛するのだ。そして、たとえ生物学的に正しくなくても、心で感じた人しか愛せないのは、性的嗜好に関わらず同じことなのでは?

 

 繰り返しになるが、もちろんだからといって、ロリコンが幼い子供を相手に性欲を満たすことは、決して許されない。たとえ合意のうえであろうとも、児童の未熟な自我を考えれば、それは憎むべき犯罪である。

 だからこそ、ロリ系エロマンガ購買者の圧倒的大多数も、ごく当たり前に恐ろしい性犯罪を憎み、距離を置いている。ナースフェチだというだけで、「普通の人」が病院で連続強姦を働いたりしないのと、まったく同じように。

 

 それどころか、俺様の知る「普通じゃない」人たちは、みな大人しい紳士ばかりで、世間から見れば「変態的な」自らの性癖は、よっぽど仲良くならない限り、おくびにも出さない。「やっぱ貧乳がイイよね!」みたいに、軽口まじりで性的嗜好を披瀝するようなことすら、ない。もしご自分がロリコンに生まれついたなら、こうした生き方と「ある日突然幼女を襲いまくる」姿、どちらのほうが容易に想像できるだろう?

 

 先に示したとおり、彼らの圧倒的大多数は、そのように生きているのだ。「普通と違う」自分の欲望を生涯コントロールして、誰も傷つけず、秘密を抱え、息を潜めて、一回こっきりの人生に折り合いをつけて生きているのだ。

 

 

 そういう人たちから、空想上の性愛すら奪おうっていうんだよ、この法律は!

 

 

 現実には誰も傷つけない、虚構のなかの性欲のはけ口。それすら取り上げて、「お前ら変態には性欲を持つことなど認めない。持ったら犯罪!」って、言ってるに等しいんだよ!

 

 人間であれば、どんな性的嗜好の持ち主にだって、性欲はある。もちろん、ロリコンにだってある。現実にそれを満たすことが決して許されないから、せめて虚構のはけ口を求めるのが「犯罪」だって言うなら。誰も傷つけてないのに犯罪だって言うなら、それはもう「キモい奴らはキモいだけで犯罪」、煎じ詰めれば「キモい奴らは存在することが罪」ってコトじゃないか。

 

 こんな無茶苦茶な、むごい話が、あってたまるものか。

 

 嫌悪感が生んだ「キモいという罪」

 

 「公共の福祉」という言葉がある。この言葉を使ったお決まりの文言、「公共の福祉に反しない限り」とは、即ち「他者の人権と衝突しない限り」という意味だ。

 

 教えて欲しい。空想の、あるいは虚構の世界で、許されざる相手と許されない愛欲にふけるのが、一体誰の人権と衝突するのだ?

 

 そもそも「お上」というのは、この「公共の福祉に反しない限り」において、最大多数の最大幸福を実現させるための装置であると、俺様は理解している。つまり、誰かを傷つけない限り、思想、信条、信教、ましてや性的嗜好とを問わず、万人の幸福を最大化するのが仕事だ、と。だからこそ「お役人さん」や政治家の「先生」は、尊敬を集める仕事だったはずだ。

 

勘違いすんなよ、センセーがた。思想、信条、信教、そして性的嗜好は我々個々人のものであって、「これこれこういう風に生きろ」なんてのは、お前らが一番言っちゃいけないセリフなんだ。

 

 にもかかわらず、この条項の推進者たちは、「普通じゃない」人々を「普通じゃない罪」で、社会から駆除しようとしている。それも、圧倒的多数の人々の「性的嗜好が普通じゃない奴らはキモい」という感情を後ろ盾に、憤懣やるかたない「正義ヅラ」を浮かべて。

 

 俺様に言わせりゃ、そっちのほうが遥かに醜悪だ。

 

 嫌悪する相手の人権こそ、守れるかどうかが問われる

 

 だが、それでも。これだけ言っても。やっぱり多くの「普通の人」は言うだろう。

 

「でもやっぱり、そういう人たちは気持ち悪い」

 

 ……うん。それは、わかる。ていうか、「普通の」人なら、それこそ当たり前な反応だ。かく言う俺様だって、ロリ系エロマンガのアレな描写には正直ドン引きするし、それ見てニヤニヤ笑ってる人がいれば、即刻その場を離れるだろう。子供を持つ親御さんの心配だって、気持ちのうえでは当然だと思う。

 

 しかし、どんなにキモチ悪い、あるいはキライな奴であっても、「公共の福祉に反しない限り」自由と権利を認めるというのは、人類が血であがなった叡智なのだ。マイノリティがマイノリティなるがゆえに、弱者が弱者であるがゆえに、犠牲となることのない社会を築くために。マジョリティの意見だけが通る弱肉強食の世界では、いつ自分も「弱者」になるかわからない、その教訓が生んだ偉大な遺産なのだ。

 

 同じように、「やりそうだから」という恐怖に任せて、「やってもいない」犯罪で人を罰することの恐ろしさは、歴史がイヤと言うほど教えてくれている。

 確かに児童への性犯罪を犯した者のなかには、ロリ系エロマンガの読者もいただろう。しかし、その因果関係を示す有意なデータがなく、それどころか真逆のデータすらある状態で、ロリ系エロマンガの購買者を犯罪者予備軍として罰するなら、それは魔女狩りだ。異国の地で日本人の殺人鬼がひとり出た瞬間、その国の日本人すべてを処刑して、問題が解決したフリをするようなものである。

 

 決して大袈裟なハナシではない。現にいま、成人女性の出てくるエロマンガはフツーに売っているし、虚構の産物である痴漢モノのAVを持っていても、逮捕されない。だがこの条項は、特定の性的嗜好の持ち主に限って、これらを犯罪化しようとしている。「法のもとの平等」など、まったく無視されているではないか。

 

 ロリコンの空想が自由であるように、普通の人が彼らをキモいと「思う」のも、また自由だ。それは仕方ないし、関わりたくないなら避けてもいい。だがその嫌悪感ゆえに、彼らの「最後の自由」である無害な虚構まで奪い取るのは、果たして正しいのだろうか? やってもいない犯罪で彼らの自由を奪うのは、我が子への愛で正当化され得るのだろうか?

 

 キモいヤツらには、誰もが持ってる性欲も、人権も、なくていいのだろうか?

 

 この検討条項には、我々が幼い子供たちに一番教えるべきこと、即ち「自分が同じ立場っだったら、どう思う?」という共感が、想像力が、愛が、どこにもない。

 

 こんなのは間違ってると、俺様は思う。

 

 

 すっかり長文になってしまったが、以上でお分かり頂けただろうか?

 そう、俺様は怒っている。

 表現の自由が危機に瀕しているからじゃない。

 オタクカルチャーの芽が摘まれそうだからでもない。

 自分がロリ系エロマンガのファンだからでもない。むしろ、そんなんこの世からキレイさっぱり無くなっても、俺様自身は一向に困らない。そういう趣味を堂々と披歴するヤツらの神経を疑うし、正直キモい。

 ついでに言えば、どうやったってシモのハナシになるんだから、できればこの話題には触れずに済ませたかった。

 にもかかわらず、俺様をして本稿を書かせたこの怒りを、一体なんと呼ぶべきか?

 

 

「社会正義」って言うんだよ、バカヤロー。

 

 

 

反社会学講座 (ちくま文庫)

反社会学講座 (ちくま文庫)

 

 

幻想の山は遠く

 

 わかっちゃいるけど驚いた

 

  2013年5月23日、登山家の三浦雄一郎さんが、世界最高峰のエベレスト登頂に成功なさった。しかも御歳80歳。言うまでもなく、史上最高齢での快挙だ。

 

  当然、世間の注目度も高く、23日に至るまでにも、ニュース番組ではアタックまえの元気なお姿とか、ベースキャンプでの食事風景なんかが、頻繁に放送されていた。ご覧になった方も多いと思う。

 

    ただ、1971年生まれの俺様は、ニュースの中身よりもその映像に、軽くショックを受けてたりして。

 

「ぇウッソ、いまってエベレストの山頂付近からでも、映像送れちゃうの!?」 

 

 恐らくお若い読者諸兄にとっちゃ、「このオッサン、化石か?」ってなモンだろうけど、まあちょっと聞いてくんな。もちろん俺様だって、現代ではそれが技術的に可能であることぐらい、頭では了解してるのよ。偵察衛星から地上を撮影して、映った人間の個体識別までついちゃうご時世なんだから、エベレストからの映像がなにほどのものか。

 

 にもかかわらず、俺様がマヌケなことを口走ったのはなぜか? キモいのを承知で言うなら、この映像に、ちょっと切なさを覚えてしまったからなのである。

 

 異界としての山物語

 

 つらつら考えてみるに、たぶんそれは、俺様が観てきた「フィクションにおける山」のせいなんだと思う。

 

「山」をテーマにした映画や小説は数あれど、例えば高尾山みたいな「ご近所ハイキングコース」が舞台となったケースは、寡聞にして知らない。やはり多くの場合、物語の舞台であり、下手すっと主題ですらあるのは、人跡もまばらな高い山だ。ひとたび荒れれば瞬く間に命を奪う、過酷にして峻厳な山である。

 おまけにこの山どもときたら、物語のなかでは機嫌の良かったためしがない! その恐るべき懐に放り出された気の毒な主人公は、ただ山に対する経験と知識、そして己の生命力だけを頼りに生き延びることを余儀なくされるのだ。まあ、時にはほかの人間と戦ったり、ついでに事件を解決したりもするけれど、山を舞台とする必然性は、やはりこのサバイバル劇にこそあると言っていいだろう。

 

 だからこの種の作品は、山が俗世間と切り離された「異界」でなければ成立しない。もちろん「山モノ」にだって人間社会の描写はあるが、ひとたび「異界」に呑まれたが最後、金やコネ、地位といった俗世間での力は、まったく役に立たなくなるのだ。高尾山じゃ駄目なのも道理というものである。

 

 一方、下界に残ったキャラクターがいる場合、その基本的役割は「安否の知れぬ主人公の安全をひたすら祈る」こととなる。もちろん彼らとて、下界=人間社会の枠内で、主人公を助けようと奔走したりはするだろうが、彼らが俗世間的な力で主人公をケロっと助けてしまっては、これまた「山モノ」として成り立たない。「記録的な悪天候が続いてヘリが飛ばせない」とか、「何らかの理由で通信手段が失われる」といったお約束展開は、ひとえに山と下界を断絶する方便である。主人公がハイテク装備を失うなんていうのも、人の身体から外部化された「下界の力」を削ぐという意味では同じことだ。

 

見えてしまった地続き感

 

 そう、これらはみな方便、即ちウソ八百だ。現実の登山は下界の力、なかでも資金力によって支えられているに違いないし、またそうでなくては困るのだから。人員、装備、工程の余裕、そして幾重にも用意されたセーフティ・ネット。素人にだって、それらに莫大な資金がかかるのは想像に難くない。恐らくは偉大な登山家であればあるほど、そして計画が困難であればあるほど、金をはじめとする「下界の力」を十全に使いこなす才覚やスタッフが求められることだろう。

 

 うん、そりゃあ、わかってるんだけどもさ。

 

 一連の三浦さんの映像は、この現実とフィクションの決定的な違いを――もっと言えば、従来的な「山モノ」フィクションのお約束がすでに通用しない時代であることを、まざまざと見せ付けてくれちゃった、と。

 

 ベースキャンプでの、思いのほか豊かな食事風景。山頂からの眺め。そして何より、それらの映像を自宅のリビングで観られてしまうという事実。映像の力というのは凄まじいもので、これらすべてが「異界」としての山のイメージを、軽ーくぶっ飛ばしてしまった。頭では分かっていたんだけど、なんとなく触らずにいた真実。それが像を結んで、言い逃れの余地なく目の前に現れちゃったような。

 

 言い方を変えよう。この映像を観るまで、都会のド真ん中でのうのうとフィクションを貪ってるだけの、俺様のようなボンクラは、無知であるがゆえに上手く自分を騙すことができた。「いつまでも続く記録的な悪天候」、「通信手段の喪失」、「予想もできないアクシデント」。そういうのがあれば、山は恐るべき「異界」となる、そう信じることができたのだ。

 

 だが三浦さんの映像を観てしまっては、果たしてこの前提で自分を騙し切れるかどうか、もはや怪しい。

 

 どんなに悪天候が続いても、あるいは身体に変調を来たしても、最悪下山はできるようにしとくのが偉大な登山家ってものだし、通信手段も豊富なバックアップがあって当たり前。衛星通信携帯が複数あれば、下界でヤキモキしてる連中にだって、サクっと連絡がついちゃうのかもしれない。もちろん「予想もできないアクシデント」など、セーフティ・ネットをきちんと用意できなかった言い訳だ。そんな圧倒的説得力を映像で見せ付けられてしまっては、上に挙げたような「フィクションの山が異界化する条件」なんて、今日び主人公が登山家としては三流な証拠にしかならなくね?

 

 世界最高峰の山頂付近で撮影された、すこぶるクリアな映像。それをリビングのテレビでサクっと観られてしまうという事実に、俺様は山と下界のリアルな「地続き感」を、まざまざと思い知らされたという次第なのである。

 

登るべき山はいずこに? 

 

 断っておくが、俺様は三浦さんの登頂は大変な偉業だと思っているし、そのご発言、ご壮健ぶり、なによりチャレンジング・スピリットには、心底敬服している。忘れてもらっては困るが、上記はすべて登山の準備とか環境にまつわる話に過ぎない。どんなに金とテクノロジーを注ぎ込んでも、最後は自分の足で一歩一歩を登るしかない、それが登山というものだ。80歳の三浦さんも、標高8844mという極限の高みを、ご自身の足で登り切った。これを偉業と言わずしてなんと言う! 世間には「下山にヘリを使って登頂と言えるのか?」なんて難癖をつけてる輩もいるようだが、そういう連中は山と三浦さんをナメ過ぎである。やってみろっての。すぐ死ぬから。

 

 同様に、いくらテクノロジーが進歩しようと、山が依然として人間にとって危険な場所であることも、充分承知しているつもりだ。現に今日でも多くの方が、エベレストよりずっと低い山で遭難し、亡くなっているのである。どんなに準備を整えたところで、荒れ狂う山を鎮めることまでは、未だ人類にはできない。

 

  だからこれは、あくまで都会のモヤシ中年である俺様の内面の問題、しかも現実ではなく「フィクションの山の信憑性」という、極めてどうでもイイ問題なのである。なんだけど、映像と文字とを問わず「物語」を愛する身としては、「不信の一時的停止」を維持する自分自身のチューニングって、切実な問題なのよ、ワリと!

 

 もっとも、より大変なのは「山モノ」を作ろうとしてる現代作家たちだろうけど。これは勝手な推測だが、作中で山を異界化するために「ツバをつけて」おかなきゃならない要素って、20年まえとは比較にならないほど増えてるんじゃないかしら? 「テロリストの襲撃」なんてのも、もう手垢まみれだしなぁ。

 

 とは言え、かつては『西部警察』や『あぶない刑事』レベルでOKだった刑事モノのリアリティが、『新宿鮫』や『踊る大走査線』に一段引き上げられた結果、従来とは一味違った刑事ドラマも次々誕生している。同じように、いずれ「山モノ」にもある種の革命が起きるのかも知れない。ていうか、俺様が知らないだけでもう起こってるのかな?

 

 いずれはそんな、圧倒的説得力をバックボーンとする「山モノ」と、がっぷり四つに組んでみたいモノだ。その日のためにチューニング、大事大事。

 

 

ついでにオススメ!:ファンタジーで山に挑む

 

 中年オヤジの内省ばかりでは、本ブログ初の記事として余りにアレなんで、ひとつファンタジー・ファンの俺様からも、オススメの「山モノ」をご紹介しておこう。フリッツ・ライバーの『星々の船』だ。

 

『妖魔と二剣士』(創元推理文庫)収蔵のこの中篇は、作者ライバーの代表作「ファファード&グレイマウザー」シリーズの一編。北方の蛮人である赤毛の美丈夫ファファードと、悪徳栄える街に育った小男グレイマウザー、ともに練達の剣士であり豪胆な盗賊でもある、ふたりの魅力的な主人公が繰り広げる冒険物語である。

 

 このお話でふたりが訪れるのは、魔法に彩られた作品世界「ネーウォン」の北の果てに聳える人跡未踏の高峰、スタードック。太古の昔、神々が色とりどりの宝石から天の星々を彫り上げ、空に撒いたという伝説の地だ。ふたりは大胆不敵にも、未だ残されているという「撒き忘れ」の財宝を狙って、その頂を目指すのである。

 

 でまあ、ファンタジー冒険モノらしく、その過程ではナゾの生物やこの世ならざる美姫、そして3人目の相棒となる氷猫のフリッサなんかが登場し、摩訶不思議な物語が展開されるのだがー。面白いのは、そうしたファンタジー要素と同等以上に、登山の描写が真に迫っていること。しかも舞台はテクノロジーとは無縁のファンタジー世界だから、頼りになるのは己の肉体と精神だけなのだ! ことに偉大な登山家でもある北方人ファファードが、山に対する経験と勘、畏怖と敬意、そして征服欲を原動力に、都会人マウザーをぐいぐい引っ張っていく姿がカッコいい。

 

 さらに、ふたりと同じ財宝を狙って、別ルートから登頂を試みる悪党どもも登場。個人的に印象深かったのは、遠い稜線にポツンと見えるその影への対処が、「先に山頂へ辿り着くこと」以外になかったことだ。そりゃあスナイパー・ライフルで狙撃するワケにもいかんのだもん、それしかないわなぁ。

 

 つまり、ファンタジー世界を舞台とするこの物語には、テクノロジーや金によらない「生き物としての人間が山に対峙する姿」が、純化された形で描かれているのだ。山モノのロマン、ココに極まれり! である。

 

 書かれた年代が古いこともあり、昨今よくある「論理的に整合のとれたファンタジー」に慣れた読者には読みにくい面もあろうが、興味が沸いたならぜひご一読を!