チョップアングル

オタク系フリーライター・岡島正晃が、日々の雑感などを書き散らすブログです。原稿執筆のご依頼も、随時受け付けております。Twitterアカウント「岡島正晃@Adlahir」までご連絡ください。

幻想の山は遠く

 

 わかっちゃいるけど驚いた

 

  2013年5月23日、登山家の三浦雄一郎さんが、世界最高峰のエベレスト登頂に成功なさった。しかも御歳80歳。言うまでもなく、史上最高齢での快挙だ。

 

  当然、世間の注目度も高く、23日に至るまでにも、ニュース番組ではアタックまえの元気なお姿とか、ベースキャンプでの食事風景なんかが、頻繁に放送されていた。ご覧になった方も多いと思う。

 

    ただ、1971年生まれの俺様は、ニュースの中身よりもその映像に、軽くショックを受けてたりして。

 

「ぇウッソ、いまってエベレストの山頂付近からでも、映像送れちゃうの!?」 

 

 恐らくお若い読者諸兄にとっちゃ、「このオッサン、化石か?」ってなモンだろうけど、まあちょっと聞いてくんな。もちろん俺様だって、現代ではそれが技術的に可能であることぐらい、頭では了解してるのよ。偵察衛星から地上を撮影して、映った人間の個体識別までついちゃうご時世なんだから、エベレストからの映像がなにほどのものか。

 

 にもかかわらず、俺様がマヌケなことを口走ったのはなぜか? キモいのを承知で言うなら、この映像に、ちょっと切なさを覚えてしまったからなのである。

 

 異界としての山物語

 

 つらつら考えてみるに、たぶんそれは、俺様が観てきた「フィクションにおける山」のせいなんだと思う。

 

「山」をテーマにした映画や小説は数あれど、例えば高尾山みたいな「ご近所ハイキングコース」が舞台となったケースは、寡聞にして知らない。やはり多くの場合、物語の舞台であり、下手すっと主題ですらあるのは、人跡もまばらな高い山だ。ひとたび荒れれば瞬く間に命を奪う、過酷にして峻厳な山である。

 おまけにこの山どもときたら、物語のなかでは機嫌の良かったためしがない! その恐るべき懐に放り出された気の毒な主人公は、ただ山に対する経験と知識、そして己の生命力だけを頼りに生き延びることを余儀なくされるのだ。まあ、時にはほかの人間と戦ったり、ついでに事件を解決したりもするけれど、山を舞台とする必然性は、やはりこのサバイバル劇にこそあると言っていいだろう。

 

 だからこの種の作品は、山が俗世間と切り離された「異界」でなければ成立しない。もちろん「山モノ」にだって人間社会の描写はあるが、ひとたび「異界」に呑まれたが最後、金やコネ、地位といった俗世間での力は、まったく役に立たなくなるのだ。高尾山じゃ駄目なのも道理というものである。

 

 一方、下界に残ったキャラクターがいる場合、その基本的役割は「安否の知れぬ主人公の安全をひたすら祈る」こととなる。もちろん彼らとて、下界=人間社会の枠内で、主人公を助けようと奔走したりはするだろうが、彼らが俗世間的な力で主人公をケロっと助けてしまっては、これまた「山モノ」として成り立たない。「記録的な悪天候が続いてヘリが飛ばせない」とか、「何らかの理由で通信手段が失われる」といったお約束展開は、ひとえに山と下界を断絶する方便である。主人公がハイテク装備を失うなんていうのも、人の身体から外部化された「下界の力」を削ぐという意味では同じことだ。

 

見えてしまった地続き感

 

 そう、これらはみな方便、即ちウソ八百だ。現実の登山は下界の力、なかでも資金力によって支えられているに違いないし、またそうでなくては困るのだから。人員、装備、工程の余裕、そして幾重にも用意されたセーフティ・ネット。素人にだって、それらに莫大な資金がかかるのは想像に難くない。恐らくは偉大な登山家であればあるほど、そして計画が困難であればあるほど、金をはじめとする「下界の力」を十全に使いこなす才覚やスタッフが求められることだろう。

 

 うん、そりゃあ、わかってるんだけどもさ。

 

 一連の三浦さんの映像は、この現実とフィクションの決定的な違いを――もっと言えば、従来的な「山モノ」フィクションのお約束がすでに通用しない時代であることを、まざまざと見せ付けてくれちゃった、と。

 

 ベースキャンプでの、思いのほか豊かな食事風景。山頂からの眺め。そして何より、それらの映像を自宅のリビングで観られてしまうという事実。映像の力というのは凄まじいもので、これらすべてが「異界」としての山のイメージを、軽ーくぶっ飛ばしてしまった。頭では分かっていたんだけど、なんとなく触らずにいた真実。それが像を結んで、言い逃れの余地なく目の前に現れちゃったような。

 

 言い方を変えよう。この映像を観るまで、都会のド真ん中でのうのうとフィクションを貪ってるだけの、俺様のようなボンクラは、無知であるがゆえに上手く自分を騙すことができた。「いつまでも続く記録的な悪天候」、「通信手段の喪失」、「予想もできないアクシデント」。そういうのがあれば、山は恐るべき「異界」となる、そう信じることができたのだ。

 

 だが三浦さんの映像を観てしまっては、果たしてこの前提で自分を騙し切れるかどうか、もはや怪しい。

 

 どんなに悪天候が続いても、あるいは身体に変調を来たしても、最悪下山はできるようにしとくのが偉大な登山家ってものだし、通信手段も豊富なバックアップがあって当たり前。衛星通信携帯が複数あれば、下界でヤキモキしてる連中にだって、サクっと連絡がついちゃうのかもしれない。もちろん「予想もできないアクシデント」など、セーフティ・ネットをきちんと用意できなかった言い訳だ。そんな圧倒的説得力を映像で見せ付けられてしまっては、上に挙げたような「フィクションの山が異界化する条件」なんて、今日び主人公が登山家としては三流な証拠にしかならなくね?

 

 世界最高峰の山頂付近で撮影された、すこぶるクリアな映像。それをリビングのテレビでサクっと観られてしまうという事実に、俺様は山と下界のリアルな「地続き感」を、まざまざと思い知らされたという次第なのである。

 

登るべき山はいずこに? 

 

 断っておくが、俺様は三浦さんの登頂は大変な偉業だと思っているし、そのご発言、ご壮健ぶり、なによりチャレンジング・スピリットには、心底敬服している。忘れてもらっては困るが、上記はすべて登山の準備とか環境にまつわる話に過ぎない。どんなに金とテクノロジーを注ぎ込んでも、最後は自分の足で一歩一歩を登るしかない、それが登山というものだ。80歳の三浦さんも、標高8844mという極限の高みを、ご自身の足で登り切った。これを偉業と言わずしてなんと言う! 世間には「下山にヘリを使って登頂と言えるのか?」なんて難癖をつけてる輩もいるようだが、そういう連中は山と三浦さんをナメ過ぎである。やってみろっての。すぐ死ぬから。

 

 同様に、いくらテクノロジーが進歩しようと、山が依然として人間にとって危険な場所であることも、充分承知しているつもりだ。現に今日でも多くの方が、エベレストよりずっと低い山で遭難し、亡くなっているのである。どんなに準備を整えたところで、荒れ狂う山を鎮めることまでは、未だ人類にはできない。

 

  だからこれは、あくまで都会のモヤシ中年である俺様の内面の問題、しかも現実ではなく「フィクションの山の信憑性」という、極めてどうでもイイ問題なのである。なんだけど、映像と文字とを問わず「物語」を愛する身としては、「不信の一時的停止」を維持する自分自身のチューニングって、切実な問題なのよ、ワリと!

 

 もっとも、より大変なのは「山モノ」を作ろうとしてる現代作家たちだろうけど。これは勝手な推測だが、作中で山を異界化するために「ツバをつけて」おかなきゃならない要素って、20年まえとは比較にならないほど増えてるんじゃないかしら? 「テロリストの襲撃」なんてのも、もう手垢まみれだしなぁ。

 

 とは言え、かつては『西部警察』や『あぶない刑事』レベルでOKだった刑事モノのリアリティが、『新宿鮫』や『踊る大走査線』に一段引き上げられた結果、従来とは一味違った刑事ドラマも次々誕生している。同じように、いずれ「山モノ」にもある種の革命が起きるのかも知れない。ていうか、俺様が知らないだけでもう起こってるのかな?

 

 いずれはそんな、圧倒的説得力をバックボーンとする「山モノ」と、がっぷり四つに組んでみたいモノだ。その日のためにチューニング、大事大事。

 

 

ついでにオススメ!:ファンタジーで山に挑む

 

 中年オヤジの内省ばかりでは、本ブログ初の記事として余りにアレなんで、ひとつファンタジー・ファンの俺様からも、オススメの「山モノ」をご紹介しておこう。フリッツ・ライバーの『星々の船』だ。

 

『妖魔と二剣士』(創元推理文庫)収蔵のこの中篇は、作者ライバーの代表作「ファファード&グレイマウザー」シリーズの一編。北方の蛮人である赤毛の美丈夫ファファードと、悪徳栄える街に育った小男グレイマウザー、ともに練達の剣士であり豪胆な盗賊でもある、ふたりの魅力的な主人公が繰り広げる冒険物語である。

 

 このお話でふたりが訪れるのは、魔法に彩られた作品世界「ネーウォン」の北の果てに聳える人跡未踏の高峰、スタードック。太古の昔、神々が色とりどりの宝石から天の星々を彫り上げ、空に撒いたという伝説の地だ。ふたりは大胆不敵にも、未だ残されているという「撒き忘れ」の財宝を狙って、その頂を目指すのである。

 

 でまあ、ファンタジー冒険モノらしく、その過程ではナゾの生物やこの世ならざる美姫、そして3人目の相棒となる氷猫のフリッサなんかが登場し、摩訶不思議な物語が展開されるのだがー。面白いのは、そうしたファンタジー要素と同等以上に、登山の描写が真に迫っていること。しかも舞台はテクノロジーとは無縁のファンタジー世界だから、頼りになるのは己の肉体と精神だけなのだ! ことに偉大な登山家でもある北方人ファファードが、山に対する経験と勘、畏怖と敬意、そして征服欲を原動力に、都会人マウザーをぐいぐい引っ張っていく姿がカッコいい。

 

 さらに、ふたりと同じ財宝を狙って、別ルートから登頂を試みる悪党どもも登場。個人的に印象深かったのは、遠い稜線にポツンと見えるその影への対処が、「先に山頂へ辿り着くこと」以外になかったことだ。そりゃあスナイパー・ライフルで狙撃するワケにもいかんのだもん、それしかないわなぁ。

 

 つまり、ファンタジー世界を舞台とするこの物語には、テクノロジーや金によらない「生き物としての人間が山に対峙する姿」が、純化された形で描かれているのだ。山モノのロマン、ココに極まれり! である。

 

 書かれた年代が古いこともあり、昨今よくある「論理的に整合のとれたファンタジー」に慣れた読者には読みにくい面もあろうが、興味が沸いたならぜひご一読を!