チョップアングル

オタク系フリーライター・岡島正晃が、日々の雑感などを書き散らすブログです。原稿執筆のご依頼も、随時受け付けております。Twitterアカウント「岡島正晃@Adlahir」までご連絡ください。

「本は、読んどけ!」が気になって

 

アニメっ子おじさん、大いに引っかかる

 

フリーライターとしての俺様のナワバリは、基本的にオタクカルチャー周辺である。当然アニメ関連の原稿も結構書かせて頂いてるのだが、その多くは『ガンダム』や『ボトムズ』といった80年代作品が中心。実を言えば、放映中の作品をオンタイムで毎週チェックするという習性は永らく持っておらず、仕事上必要な作品をビデオグラムでイッキ観するのが関の山であった。(『攻殻機動隊S.A.C』は、TV放映より先行してたDVDを、発売日にレンタルで観ちゃってたしね)

 

そんな俺様が、2011年の『シュタインズ・ゲート』にドハマりして以来、目下すっかりアニメっ子。いやさ、アニメ中年? まあとにかく、30代も終盤になってから、子供の頃以上にアニメを観るようになったんだから、人生ワカランものだ。

 

で、もちろんこの夏スタートの作品も、一通り序盤は視てみたんだけど。クオリティや内容とは全く別の次元で、ちょっと気になってしまった作品がある。

 

犬とハサミは使いよう』だ。

 

 

2013年7月25日現在、第4話まで放映中のこの作品は、昨今流行のライトノベル原作アニメ。内容はというと、

 

「無類の本好きである高校生男子が強盗に殺害されてしまうが、死に際に「何年も未刊になっている大好きな作家の連作シリーズ最終巻を、読まずには死ねない!」と強く願ったせいか、その精神だけが死に掛けていた(?)ミニチュア・ダックスフンドに転移。殺害現場にも居合わせ、なぜか犬になった彼の心の声を聞ける美少女作家に拾われて、大騒動を巻き起こす」

 

といったカンジ(もし違ってても許されて。なんせ俺様、原作未読なんだから)。お約束のように、件の美少女は主人公が大ファンであるところの作家である。

 

この美少女作家はドSでエキセントリック、おまけにステキ貧乳の持ち主だったりするのだが、それらがもたらす笑いはまあ、昨今のラノベ原作アニメでは、もはやテンプレの域。やはり本作の独自性は、「本への偏愛」が大きくフィーチャーされているコトだろう。考えてみれば、ラノベの読者なんて多かれ少なかれそういう人種なワケだから、なんというかその、非常に上手いフックである。

 

それを象徴するひと言が、本作のアニメ版オープニングに登場する。やたらハイテンションにカワイさを押し付けてくる、俺様的にはすこぶるニガテな類のテーマソングの最後に、犬になってしまった主人公が一声叫ぶのだ。

 

「本は、読んどけ!」

 

ぶっちゃけた話、俺様は作品そのものより、このひと言が引っかかって仕方ないんである。

 

インドアオタクにありがちな?

 

なぜか?

 

それはこのひと言に「本」、とくにラノベをはじめとする小説を愛するインドア系オタクの、無意識的な優越感を嗅ぎ取ってしまったからだ。

 

いや、オタクに限った話ではないのかも知れない。今日においてさえ、履歴書の「趣味」欄に書くコトがないと、とりあえず「読書」と書くヤツはごまんといる(因みに次点は「音楽鑑賞」)。自分を売り込む書類にも「とりあえず書ける」ぐらい、「本」とか「読書」にはインテリっぽいプラスのイメージが宿っているのだ。おまけに本は読むだけなら日本語がわかる以上の能力を要求されないから、スポーツと違ってレギュラー落ちする心配もない。つまり「スキ」でありさえすれば、知的なイメージがもれなくついてくる。というか、そう思われている。

 

となれば、体育会系のイケぶりを横目に黒い炎を燃やしっぱなしな、スクールカースト最底辺のインドア系オタクにとって、「本」とか「読書」は最後の砦。ケロロ軍曹言うところの「俺のレイヤー」、または絶対的優位を誇れる魔空空間みたいなモンである。勢い若かりし頃には、こんなコトも言ってみちゃったりして。

 

「そういえば最近、本読んでないんだー。今月なんかまだ2冊だよー」

 

もちろんコレ、映画ファンやゲームファンが「映画観てないなー」とか「ゲームしてないなー」と言うのとは、ニュアンスが全然違う。「ゲームがっ! ゲームが足りないんじゃぁぁぁぁ、マァァァァァチィィィィン!(←※殺人マンドリル)」と叫ぶゲーマーは、世間さまにドン引きされるのを百も承知だが、「本読んでないんだー」はその真逆だ。早い話、「まあボクは普段、メッチャ本読んでるからね!」的なインテリ・アピールであり、「本も読まない粗暴な輩」と自分とのあいだに、一線を画す心理の成せる業なんじゃないかしら?

 

ハイ、もうお分かりだと思う。俺様、コレが鼻持ちならんのよっ!!

 

本=知的だったのはいつまでか?

 

大体、彼らの言う「本」ってなんなのだ? 「あの本」、「この作品」、「あの作者の最新作」ならわかるけど、ざっくり「本」。この段階で、もう相当アヤシイ。

 

これがもっと昔の話なら、「本=学のある人の象徴的アイテム」という図式も成り立っただろう。活版印刷技術の誕生が宗教改革を後押ししたように、あるいは文明開化の時代に、多くの民衆が本によって民主主義に目覚めたように。進歩的思想をはじめとする「知」の伝播メディアが唯一「本」のみであり、それこそが本のメインストリームだった時代には、これを嗜むことが知識人、言論人としての最低条件であっただろうから。(だからこそ、のちの『書を捨てよ、町へ出よう』がカウンター足り得たワケだ)個人的には、「本を読んでいる=学がある」というイメージは、このあたりに起因するものと疑っている。信じられないかもしれないが、日本でもずいぶん長いこと「小説」などは「本」のうちに入らず、今で言うマンガやアニメのように、眉をひそめられていたと聞くし。

 

ところが翻って現代。「最近、本読んでないんだよナー」とかウソぶいてる若者が手にしているのが『涼宮ハルヒのなんちゃら』(←古い? ゴメン、おじさんラノベはよく知らんのよ)だったりすると、俺様は猛烈にツッコミたくなるのだ。

 

「いや、その「本」は、読んでても別に知的なイメージとかねぇから!」

 

それなりの理由があって抱き合わせだった、かつての「本」の知的イメージに、役割的にぜんぜん関係ないモノまで乗っけちゃってないか?

 

 

もちろん、種類の別を問わず活字を濫読するのに、知性を磨く効果がないとは、俺様も言わない。活字宇宙で多様なボキャブラリーを身につけ、言語表現の引き出しを増やすことは、抽象的概念を「言葉で考える」人類の思考能力にとって大事なステップであり、また武器である。なので俺様も、小さい子や思春期の中学生なんかには、「なんでもイイから、気になった本があれば読んでごらん」と、大いに言いたい。身体能力の基礎を鍛える、子供向けのスポーツ活動と同じことだ。

 

でもね、こういうのが問題になるのは、せいぜいその年齢まで。それ以上は、自分の知らないコト、知りたいコトについて書いてある本(あるいは、それに類する情報源)を意識的に探していかなければ、「知」の領域は広がらない。「なんでもイイから読んでれば知的♪」ってワケじゃないんである。

 

同様に、「最近本読んでないなー」みたいなコトを言うヤツがやたらと自慢したがる「読んだ本の数」も、読み手の知性や感性、観賞眼の直接的論拠とは、あまりなっていないように思う。映画なんかでも同じコトが言えるけど、とにかく数を観て観賞眼を鍛えるのが有効なのは、やはり基礎の部分まで。それ以上は純粋に知性と訓練、そしてそれを支える探求心の問題で、例えば自分の好きな作品について、優れた批評家をはじめとする他人の意見を聞いたり読んだりしてるヤツのほうが、その裾野は広がるものなのだ。個人的な印象でも、やたら数ばかり自慢する映画ファンほど「面白かった」とか「演出がよかった」とか、ひどい場合には「7点!」程度しか言えてないのに対し、作品にほれ込んだ挙げ句『ブレードランナー論序説』にまで手を出してるような人たちは、たとえ数は少なくても、観た作品個々に関して興味深いコトを仰っている。

 

丸見えですよ馬の脚

 

「でも、何気なく手に取った本で、人生観を新たにすることだってあるじゃない!」って? ごもっとも。もちろん俺様だって文筆業の端くれ、いままで出会った本のなかには愛して止まないモノもあるし、一生の宝物になった読書体験だって山ほどある。でもそれは、他のメディアでも同じコトだ。新書で得られる知的興奮はドキュメンタリーで得ることもできようし、小説で得られたのと同じ感動が、映画やゲームで得られない道理はない。もっと言えば、例えばスポーツのなかでだって、人生観を揺るがす瞬間は鮮烈に訪れるだろう。「本」だけが特別でも、「本を読んでる知的なオレ」だけに許された宝物でもないのである。

 

(ついでに余談ながら、そもそも言語というメディアは、描写能力の点で甚だ不自由である。写真を見れば一瞬で理解できる風景を、同じ解像度で伝えるには数千語を要するし、ボクシングの試合を正確に描写したら、電光石火のジャブ一発の描写を読むのに数十秒はかかる=「スピード」という情報が欠落するので、動画にまったく敵わない。ゆえに小説では、作者の脳内風景から最も注視して欲しい部分を「切り出して」描写し、それによって全体を「連想」させるという、大変特殊で苦しいコトをやっているのであって、お世辞にも「向いているメディア」とは言い難いのだ。反面、この原稿のような抽象概念は言語でしか表現し得ず、映像のみで伝えることは不可能である)

 

そう、小説やラノベを含めた今日の「本」っていうのは、もはや知的イメージを読み手に与える特権的なアイテムではないのだ! 

 

にもかかわらず、旧来的なイメージをダシにして、さも「本を読んでいるオレ」が知的であるかのようにアピールするのって、イヤらしいし、逆にアタマ悪くね? と。

 

いわんや「本は、読んどけ!」とは。「バスケは、やっとけ!」と同じぐらい、大きなお世話である。

 

オレがスキなのは本であって本を読んでるオレじゃないのでオレ自身はボンクラでもいいという悟りに彼女がまったく感心してくれない件

 

逆に言うと、俺様は今日において、個々の内容以前にメディアとしての「本」を「読むこと」、その行為自体を偏愛することは、もはや嗜好の問題だと思っている。取り立てて知的でもなんでもない、サッカーやプラモデル作りや映画鑑賞とまったく同列の、単なる「趣味」に過ぎない、と。

 

そして、その上でなら。あくまでその上でなら、俺様は本を読むのが大好きだ。

 

ジャンルなんか関係ない。例えば新書なんか、得られる情報はドキュメンタリーと同じでも、ページをめくるたびに知恵の輪がほどけていくようなあのカンジは、やっぱり捨てがたい。この偏愛は知的どころかアレ寸前で、スマートでも効率的でもなく、ヘタすっと懐古主義一歩手前なんだけど、俺様はそれが好きなんである。

 

もちろん小説も大好きだ。掌を返すワケでもなんでもなく、若い子がラノベを読むのだって「大いに楽しんで!」と思う。俺様自身、最近のラノベはまったく読まないけど、中学生の頃には『クラッシャージョウ』シリーズを貪り読んで、遠い宇宙での大冒険に興奮しっぱなしだったもの。どっちも読んでたってカケラも知的じゃない。むしろ妄想で脳がパッツンパッツンな、ボンクラ野郎の一丁あがりだ。一般小説だって、コレは基本的に変わらない。

 

でも、楽しい。だからこそ、面白い!

 

それで充分じゃなーい?

 

 

そういえば、より重篤な症状のご同輩のなかには、自らを「活字中毒者」を呼ぶ方もいらっしゃる。「中毒者」だよ!? 字義だけを問うなら、「本は、読んどけ!」のイタさ、「今月2冊しか読んでなくてー」のイヤらしさに比して、なんとわきまえたモノ言いだろう。

 

俺様自身が果たしてその域にあるのかどうか、それは正直どうでもいいし、俺様にはわからない。ただわかるのは、発売後2ヶ月にしてやっと買って来た『新装版コナン全集6 龍の刻』(ロバート・E・ハワード 著 中村融 訳)をようやく読めるのが、いまは楽しみで仕方がない、ということだ。

 

え? なんでもっと早く買わなかったかって?

 

 

買ったら読み耽っちゃうでしょ! 仕事ほったらかしで!!

 

 

龍の刻 (新訂版コナン全集6) (創元推理文庫)

龍の刻 (新訂版コナン全集6) (創元推理文庫)

 

 

(追記)

お読みになればお分かりと思うが、本稿には『犬とハサミは使いよう』、とくにその原作であるラノベを批難する意図はまったくない。むしろ調べてみたら、なんとこの作品、巻が進むと「文学者同志が繰り広げる、男塾も真っ青の文筆バトル!」という超展開まで待ってるんだそうで。「本=知的」への皮肉と捉えるのは穿ちが過ぎようが、ひょとしたらゲラゲラ笑って楽しめるのかも知れない。